これは各会社によってかなりの差がある。
たとえば図面だけを描けばよい会社もあれば、工程をまとめたり
現場まで担当すると言った会社までさまざまである。
そこで、ここでは施工図を書くということについて書くことにする。
昔もそれなりに忙しかった。
たしかにPCcwの絶対量は今よりも少なかったが、
それ以上に設計部門の人数も少なかったのである。
だから忙しいときに一人が6現場ほど担当する、
と言うようなことも不思議なことは無かった。
しかし、図面の枚数は今と比べると圧倒的に少なかったのである。
だから少人数でもやってこられたのであろう。
図面枚数が少ないと言うことは手を抜いたわけではなく、
当時はその程度でも物が(PCが)作れたと言うことである。
施工図の内容としては、
「平面割付図」
「取付詳細図」
「収まり詳細図」
「版図」
「配筋図」
「アンカープラン」
等と、現在と比べ大きな違いは無いのだが、その技術内容はかなり簡単なものだった。
もっとも、そのころは今のような等圧機構も無かったし、
アルミサッシの熱伸びに対する考えも無かった。
今ではもう知っている人も少ないと思うが、
すでに過去の異物となったコンプリバンドを見たとき
「これはすごい、これを使えば雨は漏らない」
と思ったものである。
と言うことは、雨漏りを防ぐため色々と考えていたのかもしれないが、
せいぜいその程度の発想しか出来なかったのであろう。
だから図面の枚数が少なくても済んでしまうのである。
今、PC関係の仕事をしている人には信じられないほど少なかった。
さて、ここまで書いてみたのだが、どうもこれでは当時のことを
理解していただくのは難しいようだ。
自分でも
「あまり変なことを書くと..まずいかも」
と言うようなことで少々筆が鈍っている、
がそれも事実であったのだから仕方ない。
以降、徒然なるままに書いていくことにしよう。
-----昔の設計とは-----
はっきり言って昔はたいした仕事をしていなかっら。
今だからそう思う。
当時意匠的に凝ったPCが多く、そのためか設計図には
しっかり各部の詳細が表現してあったと思う。
最もそうしないと設計者としてはどんなPCを作られるか心配だったのであろう。
それは冗談として、その頃はまだ設計者主導型であり、
我々への意志表示手段として設計上でしっかりと表現していた。
我々の仕事としては図面を書き写しながら
「ここの脱型勾配をもう少し取りたい」
とか、型枠の回転を考え「この形をちょっと変えて欲しい」とか、
せいぜいその程度であった。
入社早々の私はほとんどこんな感じで設計を担当していた。
もっとも誰も教えてくれる人がいないのであるから、
それも仕方なかったと言い訳させて欲しい。
会社が教えてくれたのは脱型勾配のことだけだった。
当時その会社は木製の型枠を使用しており、
脱型勾配はは1/8以下、ジッパーガスケットの部分は1/10と記憶している。
木製型枠の工場に見学に行ったとき、
そこでVIPルームの内装とかボーリングのレーンなども作っていたのには驚いた。
「PC版の目地の部分の減圧空間」
と言う言葉を知ったのもその頃である。
当時のその会社のカタログに図解で示してあるのを見ても、
なんのことかよくわからず「ふ〜ん」と思ったものだった。
また「オープンジョイント」の写真も見た記憶がある。
おそらく外国の例として紹介していたのであろう。
今でも覚えているばかげた話がある。
確か入社1年目か2年目の頃の建物だったと思う。
つまり昭和44年か45年のことであるが、
ある建物であるコーナーがあった。
打設面の出っ張りを止めようということで違う提案をしたのであったが
、設計者の回答は駄目。
そこで「できる」「できない」の押し問答の繰り返しがあり、
見かねた現場の所長の提案によって中庸案で収まった。
その中の三角を現場で作ると収縮する。
と言うことで鉄板で三角形をつくりその中にモルタルを詰め
それをPC工場に運び、あらかじめPCに貼り付けて出荷する
、と言う変なことになってしまった。
しかし、このような馬鹿なことばかりしていたのではない。
当然経験とともに様子もわかってくるし、
2年ほど経つと自分で考えることが出来るようになってきたのである。
昭和46年頃のことだ。
ところで、その当時、当然私よりも以前に入社している人もいた訳で
、記憶では昭和41年と昭和42年にそれぞれ一人づついたように思う。
逆算するとその先輩達は私が入社した昭和44年には
すでに各自で工夫しながら仕事をしていたのであろう。
現在この業界で活躍しておられる方の経歴およびその当時から
現在まで残っていらっしゃるスタッフの顔ぶれから判断すると、
おそらく昭和42年頃から現在の設計技術の雛型が出来たようである。
最も現在のような設計技術論はまだその当時は無く、
また勉強する手段も知らず、試行錯誤の毎日であったと思われる。
そのような状態であることから社内での技術情報交換とか
勉強会のようなものは行われず、
結局のところ個人プレーとなってしまったのである。
そのことは技術の進化を妨げた要因のひとつであった。
更に大きな問題は、
設計技術者の定着率が極めて悪かったことだ。
私が最初に入社した会社を例に取ると当時の人はもう誰もいない。
(定年退職したわけではない、念のため)
かく言う私も2つの会社を入ったり出たり、3度も辞めている
。当時我々には、PCcwメーカーと言うしっかりしたプライドは無く、
どちらかと言うと下請け意識だけが強かった。
それも定着率が悪かった原因であり、
この問題さえなければ現状はもっと違ったかもしれない。
-----昔の知恵比べ-----
それでは、どんな知恵を絞ったか紹介しよう。